イギリスのトレイルランニングのブランドInov-8(イノヴェイト)社は、社員が全部で100人にも満たない小さい会社です。本社はトレイルランニングの聖地、湖水地方のステイブリー(Staveley)という街にありますが、言い方を変えればイギリスの田舎にある小さな会社。そんな会社がノーベル賞素材のグラフェンを使ったアウトソールを世界に先駆けて開発し、2018年から販売を開始しています。Inov-8社がG-Gripという名称で靴のアウトソールに使っている素材ですが、グラフェンをゴム素材に混ぜ込むことにより、従来のゴムより柔軟性・伸縮性の高さを保ちつつ強度も高く長持ちするというもの。現時点でも他の会社からグラフェンを使った同様な素材は発売されておらず、この技術は現時点Inov-8社が世界特許出願中。なぜこんなイギリスの片田舎にある小さな会社がノーベル賞素材グラフェンを使った世界初のアウトソール用の素材開発が出来たのか、その背景と経緯をお伝えします。
私自身はこの商品開発に絡んでいた訳では無く、ちょうど開発をやっている時にその話を同時並行で聞いていた立場。正直最初開発をやっている話を聞いた時は、何をこんな小さな会社が無茶な事を言っているんだ、と思っていたのですが、発表後のトップアスリートの反応や市場での評価は驚くものでした。
Inov-8はこんな会社だったから開発に繋がった。
Inov-8社の創立は2003年。当時30歳代後半だったジンバブエ生まれの創業者、ウェイン・エディ氏(Wayne Edy)によって創立された会社は、倉庫の一角に小さなオフィスを構えてスタート。今でも残っている創立メンバーは当時はまだ大学出たばかりの若者が中心。走るのが好きな若者たちが目指したのは、山野を走るトレイルランニングに適した靴。ぬかるんだ斜面だけで無く濡れた岩場でもしっかりと滑らない様グリップし、しかも徹底的に軽い靴という当時世の中にはなかった靴の開発を目指しました。
その結果開発されたInov-8社最初の商品がMudroc 290。その靴を履いたニュージーランドの女性ランナー、メリッサ・ムーン(Melissa Moon)が2003年にアラスカで行われたマウンテン・ランニングの世界大会で優勝。イギリス人の男性ランナー、ティム・デイビスもイギリスで行われたマウンテン・ランニング世界大会で上位入賞と、創業初年度から山野を走るトップランナーからその軽量でグリップ力の高い靴に強い支持が寄せられ、2003年度のRunners WorldでProduct of the year 2003を受賞という快挙を達成。
Inov-8社はその成功を受け商品群を拡大。急速にトレイルランニングの世界ではその名前を轟かせるに至ったが、彼らが成功した要因は大きく3つ。
1.彼ら自身がトレイルランニングの事を良く知り尽くしていた事。
2.トレイルランニングのトップランナーたちと非常に密なコミュニケーションパスを持っていた事。
3.繰り返し行った開発とテストスピード感が圧倒的に早かった事。
Mudroc290には、当時通常靴に使われていたものより格段に柔らかくグリップ力が強い『スティッキー』なゴムが使われていました。自分たち自身がトレイルランニングをやるメンバーは、その当時の靴には無いトレイルランニングに最適の靴を目指し新しい素材に挑戦。素材の柔らかさ、アウトソールの形状などで様々な開発とテストを行ったが、自分たちのテストだけでは無くトップランナーからも意見をもらいながら短期間で開発とテストを繰り返し、当時世の中にはなかった粘着度の高いゴム『スティッキーラバー』を使った商品を開発。それがトレイルランナーに受け入れられ口コミで広がっていったのです。
そのInov-8社の風土は創業から17年たった今でも色濃く残っています。私がInov-8の会社がどういう会社かを説明する時に使うのがこの会社の入り口の写真ですが、この会社の雰囲気を良く表しています。
トレイルランニングの聖地、湖水地方にあるInov-8社には今でも若いメンバーが多く活気のある会社。従業員は会社へもランニングやサイクリングで通勤するメンバーが多く、昼休みの1時間の間に裏の山を10キロ以上も走ってから食事を済ませるようなメンバー。雨が多い湖水地方なので、ぬかるんだ山道を走る事も多いのですが、雨が降っても全く気にする事無く山の走りを楽しんでいるので、玄関にはドロドロの靴がいつも転がっています。
そういった従業員が多いので、新しい靴が開発されるとすぐに従業員によるテストが始まると同時に、近隣に住むトップランナーたちに試作品を託してのテストも非常に素早く実現されます。
若く走ることが大好きな従業員たちが、自分たちも欲しいと思う商品の開発を目指し、トップランナーを巻き込みながら非常の短期間にスピード感を持って開発とテストを繰り返す、というMudroc290の成功を導いた会社の風土は今でも健在で、それがグラフェンを使った画期的な商品の開発に繋がった一つの大きな要因だったはずです。
Inov-8社がある湖水地方はトレイルランニングの聖地と呼ばれるだけあって、トレイルランニングのトップアスリートが大勢住んでいます。私がInov-8社に居た1年の間にも、頻繁にそういうトップアスリートがふらっとオフィスにやってきて、新しいテストシューズに関する意見を交換するシーンを頻繁に見る事ができました。
ノーベル賞素材、グラフェンとは?
Inov-8のグラフェン開発の話を始める前に、グラフェンについて簡単にご説明します。
グラフェンは2004年にマンチェスター大学の2人の博士、アンドレ・ガイム博士(Dr. Andre Geim)とコンスタンチン・ノボセロフ博士(Dr. Konstantin Novoselv)によって発見されました。
鉛筆の芯に使われるグラファイトから炭素原子一層分のシートとして取り出したのがグラフェンだが、『現在知られている物質の中で最も軽く最も丈夫な物質』で、鉄の200倍もの強度を持ちながらも伸縮性・柔軟性も持つという特性を持ち、『現在知られている物質の中で室温の電気伝導度と熱伝導度が最大』ともいわれる夢のような素材。
この2名は発見の6年後の2010年に「2次元物質グラフェンに関する革新的実験」という内容でノーベル物理学賞を受賞しました。通常ノーベル賞を受賞するのは実際の発見の20年くらいは後と言われている中での新素材発見の6年後の受賞は、いかにこの素材が新素材としての可能性を秘めているかがわかります。
このグラフェンに関しては、欧米と日本での世の中の反応の違いが大きいのに驚かされます。
これは、日本語でのグラフェン、カーボンナノチューブ、シェールの3つの言葉の検索数の動向をグーグルトレンドで調べたもの。シェール革命と言われるシェールが日本語では格段に多く検索されており、グラフェンはカーボンナノチューブと同程度。
ところが英語で調べると様相は一転。GrapheneはShaleとほぼ同等の検索結果で、Carbon Nanotubeとは全く比較にならない程多く検索されています。欧米ではグラフェンはシェールガスと同じくらい検索される夢の新素材だと思われているのです。
そして、そのグラフェン研究の中心地としてイギリス政府とEUから出資された総額6100万ユーロ(約80億円)のファンドをもって開設したのがマンチェスター大学の国立グラフェン研究所(National Graphene Institute)。7825平方メートル・5階建ての研究施設では基礎研究では無く実際の産業化を目指した研究が目的とされており、2015年から始まった研究所では300人を超える研究者が日々ここで産業化を目指して研究・開発を進めています。
正直、私自身もマンチェスター大学に行って話を聞くまで、グラフェンというのがそんなにすごい素材なんだという事は全く知りませんでした。欧米のメディアでは、グラフェンというのはほぼシェールガスと同程度の夢の素材として取り上げられており、一般人でグラフェンという言葉を知っている人の比率も日本よりは欧米の方が圧倒的に多いですね。
なぜInov-8がグラフェンの素材開発を始められたか?
その国立グラフェン研究所で、10名強のスタッフを抱えてグラフェンの研究をしていたアラヴィンド博士(Dr. Aravind Vijayaraghavan)が、ゴム素材にグラフェンを入れる事でゴムの性質が大きく変わる事を発見し研究論文で発表。その研究論文に目を付けたInov-8社が共同開発の申し入れを行いました。
イギリスにはナレッジ・トランスファー・パートナーシップ(Knowledge Transfer Partnership)という知識と技術のイギリス企業への移転を目的とした政府のプログラムがあります。開発案件として承認されたプロジェクトに関しては開発費用の一部をイギリス政府に補填してもらったうえで、イギリス企業は大学の研究施設を使った研究が可能。Inov-8とマンチェスター大学のプロジェクトはナレッジ・トランスファー・パートナーシップとして承認されたので、アラヴィンド博士の指導のもとInov-8向けの開発専任の研究者が国立グラフェン研究所の最先端の施設を使って研究開発を開始。こうしてInov-8はマンチェスター大学の協力の元、グラフェンを入れた新素材を使った製品開発を目指した共同開発が始められる事になりました。
この共同開発の中でInov-8社が果たした役割は、まさにInov-8の風土がなせるスピード感を持った試作品の開発とテストの繰り返し。開発から製品発売まで1年前後という短い期間に、50以上もの違う配合を元に作ったアウトソールを付けた300を超える試作品を作成。45名ものトップアスリートの協力を得ながらトータルで8000キロ以上ものテストを実施するという離れ業の様な試作とテストの繰り返しを実施。そしてその結果は驚くべきものでした。
これは、イギリスのトレイルランニングのトップアスリートのベン・マウンジー(Ben Mounsey)が7か月の間に8か国で行われた15のレースでこの靴を着用した後の写真。通常、500kmから1000kmでランニングシューズは交換が必要になると言われていますが、この靴はトータル226回のランニング、総走行距離1123マイル(1807km)のあらゆる天候のあらゆるタイプの地面を走った後のもの。
トレイルランニングの場合、走る環境が厳しいので通常のランニングよりは早めの交換が必要なのにもかかわらず、ベンはこの試作の靴一足で7か月もの間の大会を走りぬきました。『今までのどの靴よりグリップ力があった』と評された靴は、1800キロを超えるランニングを終えた後でも十分なグリップ力を確保しているのが写真からもわかります。
Inov-8社は短期間の間に徹底的に行った試作とテストで商品としての完成度を高め、2018年に満を持して最初の3モデルを発売。その後の市場での高評価を受け、今ではInov-8社の売る靴の半分弱、15モデルの靴にこのグラフェンを入れたアウトソールを使っています。
Inov-8社はイギリスのホームページで、このグラフェンを使ったアウトソール『G-Grip』の事を50%強く、50%弾性が高く、50%長持ちする(50% stronger, 50% more elastic, 50% harder wearing)と表現しています。しかしテストの結果やトップアスリートからの高評価の話を聞くと、控えめなだなとすら感じる謙虚な訴求です。実際にG-Gripを触ってみると、その柔らかさからグリップ力が高い事はすぐにわかります。
グラフェン開発、この先。
Inov-8のグラフェンを使った商品開発は、アウトソールのG-Gripだけではありません。
クロスフィットやジムのあらゆるシーンで使えるオールラウンドトレーニングモデルとして昨年年末に発売されたF-Lite G300には、アウトソールとして使われているG-Gripだけでは無く、ミッドソールにもグラフェンを使った『グラフェン インヒュウーズド リフティング スタビライザー (Graphene Infused Lifting Stabilizer』を搭載。ヒール部分の安定性が要求される重量挙げトレーニングにも対応しながら、同時に軽量化を実現したグラフェンを使ったミッドソール素材が使われています。
又昨年年末にデサントから発売されたランニングシューズ、GENTEN にも、Inov-8社が開発したロードランニング用にチューニングされたグラフェンを使ったアウトソールが使用されています。
Inov-8社とマンチェスター大学の共同開発プロジェクトは現在も進行中です。マンチェスター大学の最先端の研究施設とグラフェンに関する世界トップレベルの知識の協力を得て、Inov-8社の圧倒的にスピード感をもった試作とトップアスリートを巻き込んだテストのサイクルによる開発の結果、新しいグラフェンを使った素材でより快適でより履きやすい靴が発売されることを期待したいと思います。
グラフェンの話はいかがでしたか?私自身、グラフェンの事を全く知らないところからInov-8社の開発の話を聞き、自分でマンチェスター大学に行って話を聞いて驚いた経験から、日本と欧米のグラフェンに関する意識の違いをひしひしと実感しています。
1年間一緒に働いたInov-8社のメンバーが心血を注いで行ったグラフェンを使った商品開発に関して、出来るだけ正確にお伝えしたつもりですが、何か不明点・疑問点があればコメントください。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。